2023年3月31日金曜日

「未来へ夢をつなぐ貞山運河さがして」…六郷小の視聴覚教材から③

かつて六郷小で作った視聴覚教材のアーカイブ紹介の3本目は、平成9年度(1997年度)の「未来へ夢をつなぐ貞山運河」です。 https://www.smt.jp/library/teaching/archives/v97003.html






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「未来へ夢をつなぐ貞山運河」
1997年度 六郷小学校視聴覚教材制作委員会

2023年3月23日木曜日

「どうして六郷なの」…六郷小の視聴覚教材から②

かつて六郷小で作った視聴覚教材のアーカイブ紹介の2本目は、平成8年度(1996年度)の「どうして六郷なの」です。

https://www.smt.jp/library/teaching/archives/v96027.html


せんだいメディアテーク せんだい教材映像アーカイブより







六郷小学校という名前の由来は、六郷村にあるということを調べ、次に、ではそもそも何で「六郷」というのか?…という疑問を探っています。
江戸時代には「六郷堀」という名前がすでに使われていたことから、さらに昔を調べました。そして、室町時代の6つの郷に由来するのでは…という説にたどりついています。

最新の知見によれば、この説は必ずしも信頼性は高くないようで、土師塚=藤塚なのか?…ということも含め、「六郷」の地名がいつから言われていたのか、実はまだわかっていないようですが、こんなふうに調べてみるのはおもしろいですね。


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「どうして六郷なの -地域にある昔のものをさがしてー」
 1996年度 六郷小学校視聴覚教材制作委員会

2023年3月21日火曜日

「六郷堀って何?」…六郷小の視聴覚教材から①

 校長の有馬先生から、「かつて六郷小で作った視聴覚教材のアーカイブがあるよ」と教えていただいたので、ご紹介します!

平成7~9年度(1995~97年度)に、毎年作成されていたもの。当時の教室の様子、地域の様子も映っていますので、ぜひご覧ください。

1本目は、平成7年の「六郷堀って何?」です。
https://www.smt.jp/library/teaching/archives/v95030.html

せんだいメディアテーク せんだい教材映像アーカイブより






土地改良区で話を聞くくだりで、上流の愛宕堰から水を引いていることについて、「でも、六郷地区は、すぐ近くを広瀬川と名取川が合流する水の豊かな土地なのに、どうして堀を作ってまでも水を運ぶ必要があるのか不思議に思いました」…という話がありました。
こういう疑問を持てるくらい、地域のことがわかっているのは大事なことだな…と感じます。

今見ても見ごたえのある内容だなあ…と思える作品です。

六郷小の前の六郷堀が暗渠になる前の雰囲気も、今見ると驚きです!


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「六郷堀って何? -地域に残る古いものをたずねて-」
 1996年度 六郷小学校視聴覚教材制作委員会 



2023年3月15日水曜日

東日本大震災と六郷地域

この3月11日で、東日本大震災発生から満12年となりました。
犠牲になられた皆さまのご冥福をお祈りいたします。

12年前に発生した東日本大震災は、六郷小150年の歴史の中でも、最も大きなできごとの一つです。
六郷地域の東側の津波被災地域を中心に、六郷地域全体で126名の方が犠牲になりました。
また、もともと暮らしていた地区を離れざるを得なかった方、生業を失った方、…何らかの影響を受けた方はたくさんいらっしゃいます。

学校について言えば、平成29年(2017年)に東六郷小と六郷小が統合することになったのも、学区全域が津波被害を受けた東六郷小の児童が減少した結果です。
当時の東六郷小学校学区4地区(藤塚・井土・種次・二木)はもちろん、六郷小旧学区内でも、三本塚、下飯田、今泉地区については大きな津波被害がありました。事前に示されていた予測を大きく超え、海岸線から約4㎞、六郷小・六郷中敷地のすぐ横まで、津波は到達しました。


「東日本大震災津波詳細地図」(原口強氏・岩松暉氏作成)より

子どもたちも、避難所や仮設住宅への仮住まいなど、長期にわたって厳しい暮らしを送った人は少なくありません。当時六郷小に勤務していた先生からは「被害のあった子のケアをする上で、同じクラスの中に大きな被害を受けた子と何か月かしてすっかり元通りに暮らしている子と一緒にいて温度差が大きいことによる難しさを感じる」とも聞きました。

そもそも小学校が再開するまでにも、時間を要しました。
避難所として多くの避難者を受け入れた六郷小は、途中、耐震性の課題が明らかになった体育館を閉鎖して規模は縮小されたものの、最終的に4月14日まで35日間の避難所運営がされました。学校の再開は、4月18日からとなりました。


沿岸部から車で避難してきた方も多かった六郷小。
2011.3.12の航空写真…国土地理院電子国土webより)

上記は、東日本大震災のごく一端に過ぎません。
しかし、あらためて書いていくと、東日本大震災について記憶に残しておくべきことの多くは、あまりまとまった記録として残されていないのではないか…という印象があります。

12年前、平成30年度に生まれた子たちも間もなく卒業です。これから先は、全児童が震災発生後に生まれた子ということになります。大人にしても、震災発生後に移り住んできた方も少なくありません。
先生方もおっしゃっていますが、いかに伝えていくかは、やはり大きな課題です。

六郷地域にとって、決して「過去のこと」ではない震災。
本ブログでも、あらためて取り上げたいと思います。

2023年3月9日木曜日

六郷小の学区の変遷

六郷小の学区、どこまでか知っていますか? 

地図に表すと、こんな感じになります。山間部を抱える西部を除けば、市内屈指の広さです。

(地図:仙台市HPのオープンデータポータルより)

ただし、この学区については、150年の歴史の中では、大きな変遷をたどってきました。

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校名に「六郷」がついたのは、六郷村にある2校(飯田小・種次小)が統合された明治34年(1901年)。六郷村全域が学区となったわけですが、その時の学区には、現在の沖野小・沖野東小学区も含まれていました。

その後、昭和16年(1941年)に 六郷村は仙台市と合併しますがしばらく学区は変わらず、60年近く六郷地域全域が一校区でした。六郷地区の学区が分かれたのは、昭和32年(1957年)種次分校が東六郷小として独立したことによります。
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さらにその後、沖野地区の人口が増えて昭和52年(1977年)に沖野小が独立(5年後には、沖野小からさらに沖野東小が独立)してさらに狭くなりました。
(そんなわけで、沖野は六郷小学区ではありませんが、六郷地域ではあります! 六郷小の児童・保護者でも意外と知らない人が多いかもしれませんが…。)

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今の学区になったのは、まだ記憶に新しい平成29年(2019年)4月。
東日本大震災の影響を受け、六郷小と東六郷小が統合したことによるものです。

六郷小の学区の変遷は、六郷地域のたどってきた歴史と密接につながっています。

2023年3月3日金曜日

【六郷小クイズ①】六郷小ができた時の名前は?

六郷小は、令和5年(2023年)5月20日で満150年となります。
突然ですが、ここで問題!

150年前の明治6年(1873年)5月20日、今の六郷小学校が開校しましたが、その時の学校名は、実は六郷小学校ではありませんでした。では、何という名前だったでしょう?

1.至誠小学校

2.飯田小学校

3.種次小学校

実は、学校の名前が「六郷」となったのは、開校から28年もたった明治34年(1901年)のことでした。それまで六郷に2つあった小学校が統合されて、「六郷尋常高等小学校」となったのでした。

その時に統合された2校が、「飯田尋常小学校」と「種次尋常小学校」でした。
明治22年に8か村が統合して六郷村になって以来、村内2校の統合は大きな課題だったようですが、統合から12年を経て実現した…ということのようです。

ここで、【正解発表】

明治6年5月20日に開校したのは、「2」の「飯田小学校」でした!

ちなみに、もう一つの前身になる「種次小学校」の方も、同じ明治6年の6月に開校していたそうですよ。(飯田・今泉・日辺・沖野の4か村は飯田小、種次・二木・井土・藤塚の4か村は種次小でした。)
「1」の「至誠小学校」は、飯田小が明治10年~12年の間だけ改称されてつけられた名前です。
今も校是となっている「至誠(誠をみがく、誠をちかう…とても誠実なこと)」の思いの込められた名称です。


実行委員会だより最終号

仙台市立六郷小学校 開校150周年記念事業について、決算の監査も終わり、実行委員会の最終号を発行いたしました。 沢山の方々のご協力の元、この時を迎えられました。心より感謝申し上げます。